頭脳力

禅を誤解している!?|マインドフルネス瞑想の正しい取り入れ方

今回は、禅に対する大きな誤解が解けた。という話

先日、京都両足院で禅を体験した。

「瞑想は『無』になること、そしてひたすら苦に耐え、乗り越えるもの」と思っていたけれど、そんな勝手な印象が一瞬にして吹き飛んだ。

結論

禅はもっと身近にあって気軽なものだった。

『気づき、考え、行う』

このループをひたすらに回すことに本質はあった。

つまり、

万物と向き合う姿勢こそ禅を取り入れる上では大切なことなんだろう。

禅とはいったい何なのか?

禅とは『ゆるめる、ほどく、手放す』であると住職は仰った。

『頑張る、打ち勝つ、乗り越える』ではないと。

だからこそ、

いきなり『無』になろうとしてはいけない。

「何とか頭の中を空っぽにしないと」

「どうにかして気持ちが動かないように」

なんて考えて、心も身体も力んではいけないんだと。

狙いを持たず、計らいごともせず、ただ力みから開放された状態がベスト。

これは私にとっては大きな発見で、『無』をひたすらに追い求めるものだと勘違いしていた。

でも実際は、

『無』というのは苦行を乗り越えた先、最後の最後に訪れるもので、一般人が昨日今日で到達するものではないと。

では、

私のような一般人が仕事や日常に禅を取り入れるにはどうしたら良いのか?

住職の壮絶な3年間

住職が3年間に渡る修行の中で体験した話が参考になった。

明日にはまた生えてくる1ミリ程度の雑草をひたすらムシったり、一日中ただただ坐禅をしたり。

その非合理的な修行の日々に悩み続けたようで。

こうした無意味な行為をどう理解するべきか?その一つ一つの意味を探ることにしたらしい。

そうして見えてきたのは「自分はほとんどのことを無意識的にやっていたんだ」ということ。

感情の波のことも、身体を動かす行程も、思考のクセや自然の摂理についても。

それらは当たり前に身の回りに在り過ぎて、気付くことがなかった。

ひとつひとつ丁寧に意識を張って、それらに気付きはじめた瞬間に、向き合い方がまるで変わったと仰った。

蚊とは快楽そのもの

特に印象的な話だった。

瞑想中にはたくさんの蚊がやってくる。

耳元で鳴らす羽音に心は揺らぎ、刺された後の痒みや痛みに耐え抜かなければならないことが本当に苦痛だったらしい。

ある時、

住職は「どうせ刺されるなら蚊について考えてみよう」と思い立ったのだと。

「刺されてからどれくらいで痒みや痛みが襲ってくるのか?」

「その痒み・痛みはどのくらいで収まるのか?」

「痒み・痛みといっても、どんな種類の痒みがあるのか?」

「その痒み・痛みを自分はなぜ不快に感じるのか」

などなど。

そうして見えてきたのは、

『何もしないと10分もすれば痒みは一切無くなり、掻くと痒みは増していく』そして何より『痒み・痛みの8割は快楽だった』ということ。

それに気づいてからは、蚊が近くに来ようが、どれだけ刺されようが、心が騒ぎ立てることは一切無くなったんだと仰った。

これは決して痒みを感じなくなったということではないと。

今でも刺されたら痒みは同じように来る。

しかし、

それを味わったり手放すことで動じないようになれるんだそう。

ちなみに、蚊に刺されることが快楽という意味は私には分からなかった。

我々が禅を取り入れるには?

住職の説教から私が学んだのは、物事との向き合い方だった。

禅を取り入れる4ステップ

  1. 抗うことなく身を委ねる
  2. 些細なことにも向き合ってみる
  3. 得た気付きは試してみる
  4. 1~3を日常的に繰り返す

つまり、

物事と向き合う時にはどんな些細なことにも神経をとがらせることで、見え方の解像度が格段に上がるというわけ。

一足飛びに『無』を求めて意識的に『無』になろうとするのではない。

自分の内側と外側で起きているコトをひとつひとつ味わう

苦しみや悲しみや不安なんかが現れたなら、抵抗せずにその感情の出どころを探りに行って、そして最後にはそっと手放す。

そんなことをやっていくうちに、自分自身だって自分ではコントロールできないことに気が付く

その発見を積み上げていくことで、一喜一憂せず、ネガティブな感情はそっと手放せるようになるんだとか。

住職のお言葉

「例えば、鳥の鳴き声、風の音、バイクのエンジン音、人の話し声、建物の軋む音。そうした外側の世界だけに意識を向けるといっても、どうしても自分の内側のコトを考えてしまいます。足が痺れたな、とか、自分は正しく瞑想できているだろうか、とか。つまり、自分のことだって人間はまともにコントロールできないわけです。」

「足が痺れたとしても、その痺れは5分と経たずにすっかり消え去ってしまう。その痛みの始まりから終わりまでのストーリーを知っておけば、別に足が痺れたって動じることはない。どうせ僅かな間の感覚ならば、痺れを受け入れ、そして手放せばいいんですね。」

「宗派だとか、瞑想の正しいやり方だとか、そういうものはどうだって良い。大事なのは、禅の本質を理解して、自分が出来ることから取り入れていくこと。だから、胡坐の組み方も、手の形や置く場所も、目を開ける閉じるも、まずは何だって良い。自分がしっくりくる姿勢、やり方で始めればいいんです。ひとつでも何かに気づくことが大切なんです。」

「本来、自分の外側の世界も内側の世界も分ける必要はない。今この瞬間に感じられる物事にただ身を委ねて、味わうことができれば良いわけです。苛立ちや不安みたいなものも自分の中に存在するものとしてありのままに受け入れることができれば、抗う必要はない。どうせ少しの時間が経てば感情は収まるものだということを知っていれば、感情はすぐに手放すことができます。」

「手のひらに感じる風や水分、指先に感じるピリピリとした何か、関節をゆっくり動かすと感じる軋み、心臓の振動やまぶたの重み。頭のてっぺんから足の先までを細かく丁寧に感じていくと、普段は気づくことのない感覚に気づくことができます。この発見が物事を見る解像度の細かさに繋がっていきます。意識が及ぶ範囲が広がるわけです。」

「禅の本質を理解していれば、日常のどんな瞬間にも瞑想は取り入れることができます。外を歩いている時、ソファに頭を持たれて座っているとき、お風呂に使っているとき、寝る前の布団の中。1分でもいいんです。力むことから自分を開放してみることが大切です。」

以上。

まとめ

禅・瞑想は頭で考えるよりもとりあえず体験してみることが大切だと思います。

「瞑想 寺」で検索すると体験できる場所が見つかりますので、ぜひ肌で体感してみてください。

 

それでは、また!

 

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